伊保庄弁版

 

 ちゅうかい神社っちゅうもんは、世界をこもうして建てたようなもんじゃ。神様は世界の隅々まで満ちておって、よろずのものをお造りになり、わしら人間のことをみな守っちょられる。それに、世界に満ちておる霊気も、すべての生きちょるもんも生きちょらんもんも、みな神様がお造りになったもんじゃ。

 

 ほいじゃが、この村の鎮守様の小烏さーについて、むかしゃー神と仏が一緒じゃちゅう説に則って書かれた伝記があったがの、いつかけしからん奴に盗まれてしもうた。今になって繰り返して書くこともないがの、年月が過ぎていったら言い伝えが失われてしまいそうじゃけえ、わしが書いておこうと思う。

 

 そいで、村の年寄りが言うことを聞き伝えるんじゃがの、大昔の推古天皇の時代に、弁天さーが西の方から雅な車に乗られての、小烏さーにひかせて空を飛んで行っちゃったんじゃ。ほいで伊予の石槌山に着かれたがの、そこにゃーもう石槌権現さーがおっちゃったんじゃ。じゃけえまた小烏さーに乗っちゃって、ついにこのよのしょうに来ちゃったんじゃ。しばらくご滞在されたんじゃが、小烏さーが急に病気になられての、えらいと叫び声を上げられてこうゆうちゃったんじゃ。

 

「わしゃーのう、五烏というもんで、東の都で十二代にわたって帝に仕えておって、もう数万年も生きておる。今まで老いも病いも衰えも知らんかったが、盛者必衰で生者必滅っちゅうけえの、その世界の理はわしでも逃れられんのじゃ。じゃがの、わしの魂は霊界にしばし留まって、お前らの長寿を約束する守り神になろうと思うぞ。わしが青黄赤白黒と五つの色を現しちょるんは、つまり五つの智慧の仏ちゅうことで、五つの元素っちゅうことで、五臓六腑を守るっちゅうことじゃ。人間はもちろんじゃが、すべての生きとし生けるものまで、もろもろの病気わずらいを癒やして、お前らの心身を保護する守り神になろうと思うのじゃ。」

 

とお誓いになられてたちまちのうなってしまわれた。弁天さーはぶち悲しまれての、鬼門の方の清らかな所に埋めちゃりたいと思われての、着ちょった錦の打ち掛けを脱がれて、小烏さーのなきがらを包んで、波打ち際に置いちゃった。するとの、すぐに丑寅の方から強い風が吹き起こっての、砂やら石やらを吹き寄せて、小烏さーを埋めた所が三町くらい高い洲になったんじゃ。じゃけえこの辺を高洲村ちゅうて名づけたんじゃ。弁天さーがそこに翡翠のかんざしを墓の印として立てちゃったんじゃが、それが自然に芽吹いてむくむくおおきゅうなり、陰陽ふたまたに分かれた杉の大木になったんじゃ。小烏さーはこの御神木になっちゃったちゅうことじゃいの。ここに小さい神社を建てての、五烏の宮と名づけたんじゃ。ここを宮の上というのもの、この時から始まったことなんじゃ。

 

 高洲村から五、六町ほど南の浜にの、屏風岩っちゅう霊石があるんじゃ。ここは弁天さーがよのしょうにおっちゃった時に住んじょられた所で、今も小さい神社があるんじゃ。畏れ多いことじゃがの、弁天さーはかつては正法の世では如来じゃったんじゃが、わしらを救うために女神の姿をとってこの世にお見えになったんじゃ。じゃけえ下界の都合で、女の身に起こることも避けられなかったんじゃ。そいで生理になっちゃって、その血を石の上に流されたんじゃ。その所を赤石と名づけた霊石が今もあるのじゃ。

 

 ほいじゃが、弁天さーはよのしょうに来ちゃってから、どうもご気分がすぐれなかったんじゃ。薬になる水を探されたんじゃが、へりに水は見つからんかった。「さて、どうするかのう」と悩まれて、石の上に登って、三日三夜の間、結跏趺坐してのんのんと水天の咒をお唱えになった。すると海の向こうから、立烏帽子を被って、狩衣を着た霊妙な人が突然おいでになったんじゃ。石の上にお腰をかけられて、「ここに水があるぞ」と指でさし示しちゃった。そこを弁天さーがかんざしで掘られるとの、たちまち清らかな水が湧き出てきたんじゃ。今も伝わっとる見石清水っちゅうでみはこれから来とるんじゃ。そしてその霊妙な人に、「あなたはいったいどちらさんで、どこから来ちゃったんですか」とお尋ねになった。すると霊妙な人は、「わしは大神宮のわけみたまで、蛭子三郎というもんじゃ」と答えられた。蛭子さーがお腰をかけられた岩を、岡田蛭子と名づけて今も残っちょる。

 

 むかしゃーの、高洲村は田んぼや家もまばらで、海辺に漁師のほいとー小屋があるくらいのもんじゃった。こねーな清らかな土地じゃけえのう、弁天さーは気に入っちゃって、ずっとお住みになりたいと思われちょったんじゃ。じゃが不思議なことに、だんだんと戌亥の方が自然に本州に近づいてしもうた。弁天さーはけがれをせんないと思われての、よのしょうからまた、東の都に近づいて、どこか清浄な島を見立てて住処を定めたいとお考えになっちゃった。そいで波打ち際の石の上に登っちゃって、潮の干満をはかって、遥かな沖に向かって船を乞うちゃった。するとの、東の海から五色の帆をかけた、瑠璃で屋根をふいた船が岸に着いたんじゃ。弁天さーはぶち喜ばれて、すぐさまお乗りになっちゃった。そいで今の厳島に行かれて、この世も末な時代のわしらを救いたいという願いを成就されちゃった。このいわれがあるけえ、この場所を船乞浦斗ヶ岩と言い伝えられちょるんじゃ。

 

 そのあと、千年以上の歳月が過ぎての、五烏の神社もやれてきて、陰陽ふたまたの御神木ももげてわずかに枯れ木が残り、朽木だけになってしもうた。その頃から高洲村は徐々に人の家も増えての、田んぼもようけ作って村が栄えとった。ある夜のことなんじゃが、村人一同の夢の中に、小烏さーがおつむりに宝冠を被り、五色の天衣などを纏われた姿で現れて、神様からのお告げとしてこうゆうちゃった。

 

「わしの社をここから南の山に移して、この朽木でわしの姿を刻み、安置して参拝しなさい。わしが五色を現しとるんは、この世界が終わって、次の世界の始まりの時、黄色い風を吹き起こし、それが次第に五色の風となるからじゃ。それはの、つまりわしの魂じゃ。じゃけえ、計り知れない宇宙全体、すべてのものごとは、みなことごとくわしの力によるものなんじゃ。」

 

そうおっしゃるみ声とともに、みな夢から覚めた。村の人らーは不思議に思い集って、山の上に神社を建てての、その朽木で神像の御神体を作って、祭り奉った。だんだん霊験あらたかになってゆき、近くからも遠くからも人々が歩みを運んで、もろもろの願いが叶ったということじゃ。じゃが、そのことがあった年月はわかっちょらん。ただ、神社の棟札を見るところでは、元禄時代と書いちょる。それからまた数十年経ったら、社殿もあちこち痛んで、雨風を防ぐこともできない有様になってしもうた。じゃけえ、世間の人々の助けを借りて、建て直すことを計画しとる。願わくは少しでも浄財を集めて、すぐにでも再建することができれば、小烏さーのお力はますます増して、わしらを救わんとするお働きもいっそう強くなるじゃろう。神社の始まりについては、村の年寄りの言い伝えとしてよく聞いちゃあおるが、いま書いておかないでいられようか。ありがたい言葉を集め、信仰の勧めとしたいものじゃ。

 

ときに、寛政元年霜月下旬

 

五烏社ノ地主 謹み敬って申す

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こがらすさーの誓い
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